堺の伝統産業の歴史
History of Sakai's traditional industry
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- 自転車
- 刃物
- 昆布
- やきもの(窯業)
- 堺緞通・敷物
- 和晒・注染
- 線香
- 酒
- 茶の湯文化
- 鯉のぼり
自転車
日本国内において、早い時期から堺では
自転車にまつわる産業が興(おこ)り、現在でも自転車のまちとして発展を続けています。
堺に自転車産業が生まれ、根付いてきた歴史を
さかのぼってみましょう。
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古墳時代(3世紀~)
ユネスコの世界遺産に登録されている百舌鳥(もず)・古市古墳群。それらの古墳の造営(ぞうえい)にあたっては、当時の最新技術が用いられました。その中には、鋤(すき)や鍬(くわ)など鉄製農耕具も含まれ、鉄器づくりの技術向上が巨大古墳の築造(ちくぞう)に大きく寄与しました。そんな技術が脈々と連なり、現在の自転車産業につながっていきます。
仁徳天皇陵古墳:写真提供/堺市
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奈良・平安時代(710年~)
平安時代後期には、河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれる金属鋳造(ちゅうぞう)の技術者が活躍を始めたといわれます。各地の梵鐘(ぼんしょう)や大仏鋳造から鍋釜、鋤、鍬などの日常品まで幅広い金属製品を手掛けていました。
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室町時代(1336年~)
応仁・文明の乱(1467~1477年)
応仁の乱で、京都が戦場になり都市機能を失いました。また、それまで遣明船(けんみんせん)の発着港であった兵庫津が西軍に占領されたため、堺津(さかいつ)が遣明船の発着港となり、国際貿易の起点になったのです。その後、南蛮貿易(なんばんぼうえき)により、様々な商品が取引され各種産業が堺を中心に発展してゆくことになります。
貿易による原材料の獲得、自由都市ゆえの製品の流通・販売ネットワークの充実、新技術の導入などを背景に、多数の鋳物師や鍛冶(かじ)が集まるようになり、堺では金属産業が盛んに行われました。
南蛮屏風(左隻):写真提供/堺市博物館
鉄砲伝来(1543年)
ポルトガル人が鹿児島の種子島に鉄砲を伝えました。これにより、戦国時代の戦法に大きな変化をもたらし、以降の歴史を転換させる要素に。また、堺は近江の国友と並ぶ鉄砲生産の一大拠点となりました。このことが、堺の鋳造や鍛造(たんぞう)をより深化させることになります。
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安土桃山時代(1573年~)
堺の商人、橘屋又三郎(たちばなやまたさぶろう)が種子島に滞在し、鉄砲の作り方を学んで堺に伝え、分業での製造を手掛けます。その後、戦国時代の堺の豪商・今井宗久(いまいそうきゅう)は、織田信長の後ろ盾を得て職人を組織し、鉄砲の大量生産を始めました。
堺鉄砲銘「摂州住榎並屋伊兵衛作」:写真提供/堺市博物館
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江戸時代(1603年~)
天下統一が実現し戦がなくなったことで、鉄砲鍛冶の仕事が減少します。このころから、鉄砲づくりの職人が職を求めて、「包丁」「鋸(のこぎり)」「釘」「針金」「剃刀(かみそり)」「大工道具」などの鍛造品の生産に携わるようになったといわれます。
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明治中~後期
時代は明治に入り、いよいよ自転車が日本にも入ってくるようになりました。堺では、1900年ごろに北川清吉(きたがわせいきち)という人物がアメリカ製の自転車を使った時間貸しを始めたと伝わっています。鉄砲鍛冶の流れを汲む鍛冶屋がその自転車の修理を手掛け、そこから堺の自転車産業が産声をあげることになりました。
クリーブランド(アメリカ):写真提供/シマノ自転車博物館
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大正
第一次世界大戦(1914~1918年)により自転車の輸入が途絶えてしまいます。それを機に、自転車製造を専業とする業者が増加、大正5年(1916)には堺輪業購買組合が設立され、堺の自転車産業が確立しました。
日本製ラージ号:写真提供/シマノ自転車博物館
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昭和初期
堺の自転車産業は隆盛期を迎え、昭和7年(1932)には自転車関連製造業者が248社あったという記録が残っています。しかし、忍び寄る戦争の影響による国家総動員法が強化されたことにより資材も制限され、産業としては衰退してしまいます。
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昭和中期
昭和30年ごろのサイクリングブーム、昭和40年代のニュータウン建設のムーブメントを経て、自転車産業が復活を遂げました。
昭和30~40年代には子ども向けのスポーツタイプも大流行した
:写真提供/(一財)自転車文化センター
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現在
海外からの完成品輸入の増加などの逆風を受けつつも、高付加価値製品や電動自転車等の新しい技術を生かした製品を提供しています。また、自転車レースの国内最高峰とされる「ツアー・オブ・ジャパン」の堺ステージが開催されるほか、観光や日常の移動に快適・便利な電動アシスト自転車を使用したシェアサイクルが普及するなど、堺市民にとって自転車は身近な存在であり続けています。
「ツアー・オブ・ジャパン」堺ステージ:写真提供/堺市
2022年5月にリニューアルしたシマノ自転車博物館
:写真提供/シマノ自転車博物館
※参考文献
「堺―もの・ひと・こと―」
編集/発行:堺市博物館
「自転車のまち 堺のあゆみ」
発行:堺自転車環境共生まちづくり企画運営委員会
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刃物
国内外の料理職人に広く愛され続けている、堺の包丁。
「堺打刃物」と称されるその高い技術は、
どのような歴史のなかで培われてきたのでしょうか。
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古墳時代(3世紀~)
古墳の造営にあたっては、当時の最新技術が用いられました。その中には、鋤(すき)や鍬(くわ)など鉄製農耕具も含まれ、鉄器づくりの技術向上が巨大古墳の築造(ちくぞう)に大きく寄与しました。
仁徳天皇陵古墳:写真提供/堺市
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奈良・平安時代(710年~)
平安時代後期には、河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれる金属鋳造(ちゅうぞう)の技術者が活躍を始めました。各地の梵鐘(ぼんしょう)や大仏鋳造から鍋釜、鋤、鍬などの日常品まで幅広い金属製品を手掛けていました。
現代にも伝わる金属性農機具はこの時代にルーツがあります
:写真提供/大阪府立近つ飛鳥博物館
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室町時代(1336年~)
応仁・文明の乱(1467~1477年)
応仁の乱で、京都が戦場になり都市機能を失いました。また、それまで遣明船(けんみんせん)の発着港であった兵庫津が西軍に占領されたため、堺津(さかいつ)が遣明船の発着港となり、国際貿易の起点になったのです。その後、南蛮貿易(なんばんぼうえき)により、様々な商品が取引され各種産業が堺を中心に発展してゆくことになります。
貿易による原材料の獲得、自由都市ゆえの製品の流通・販売ネットワークの充実、新技術の導入などを背景に、多数の鋳物師や鍛冶(かじ)が集まるようになり、堺では金属産業が盛んになりました。
南蛮屏風(左隻):写真提供/堺市博物館
15世紀ごろ、加賀国(現在の石川県)から刀工の流れを汲む包丁鍛冶の集団が堺へと移住したという説もあります。
鉄砲伝来(1543年)
ポルトガル人が鹿児島の種子島に鉄砲を伝えました。これにより、戦国時代の戦法に大きな変化をもたらし、以降の歴史を転換させる要素になりました。また、堺は近江の国友と並ぶ鉄砲生産の一大拠点となりました。
堺鉄砲銘「摂州住榎並屋伊兵衛作」:写真提供/堺市博物館
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安土桃山時代(1573年~)
鉄砲が伝来したころ、ポルトガル人によって煙草(たばこ)が伝わり、これにより堺の金属加工の技術を使った煙草包丁が作られ始めました。(江戸期に入ってからという説もあります)
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江戸時代(1603年~)
元禄年間(1688~1704年)や享保年間(1716~1736年)に、堺の職人たちが作る煙草包丁の評判がたち、産業として発展を遂げました。
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日本刀と同様の片刃構造で、軟鉄(なんてつ)や鋼(はがね)を鍛えて作る打刃物という堺包丁の特色は、このころにはすでに誕生していたと思われます。
『和泉名所図会』巻二「打刃物所」 寛政7年(1795)
:写真提供/堺市博物館
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競争激化や煙草の製造方法の変化により、煙草包丁は衰退しましたが、包丁作りの伝統は後世に引き継がれていきました。
「煙草明細取調書」(明治5年)
東京国立博物館蔵
Image:TNM Image Archives
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昭和後期~現在
昭和57年(1982)「堺打刃物」が「伝統的工芸品」に指定されました。堺打刃物は、鍛冶職人(火造り)と研ぎ職人(刃付け)の分業制による伝統的な製法によって生産されています。
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これらの流れを汲んだ「堺打刃物」の技は、現在も料理用包丁に引き継がれており、本職が使用する料理人用包丁では、国内シェア98%と言われるほど、プロからの圧倒的な支持を受けています。
用途に合わせて様々な形状の包丁が作られています
:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
堺伝匠館1階にある「TAKUMI SHOP【包丁・砥石】」:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
昆布
和食の根幹ともいえるだしの文化は、
昆布を活用するところから発展したともいえます。
その昆布が堺に流通するようになり、加工するための刃物の技術と出会うことで、堺に昆布加工の産業が
生まれ、発展していきました。
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室町時代(1336年~)
応仁・文明の乱(1467~1477年)
応仁の乱で、京都が戦場になり都市機能を失いました。また、それまで遣明船(けんみんせん)の発着港であった兵庫津が西軍に占領されたため、堺津(さかいつ)が遣明船の発着港となり、国際貿易の起点になったのです。その後、南蛮貿易(なんばんぼうえき)により、様々な商品が取引され各種産業が堺を中心に発展してゆくことになります。
南蛮屏風(左隻):写真提供/堺市博物館
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江戸時代(1603年~)
北海道から下関を経て大坂・堺を結ぶ海運ルートが確立され、日本海や北海道の物資を運ぶ北前船が行き交うようになりました。その北前船が運んでくる昆布を使った加工業が本格的に発展しました。
菱垣廻船:写真提供/堺市博物館
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北海道をはじめ、各地から集まる良質な昆布と堺の刃物の技術と合流し、特殊な包丁を使って薄く削るおぼろ昆布やとろろ昆布の加工が盛んになりました。
現在使用されている昆布加工用の包丁。この形状は江戸時代から受け継がれています:撮影協力/(株)郷田商店
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明治中期
明治24年ごろ、大阪の寿司常(すしつね)という寿司店がバッテラ寿司を考案。これに使用される白板昆布は、おぼろ昆布やとろろ昆布を削った後に残る芯の部分で、堺はこれの主たる産地でした。
酢飯の上に、しめ鯖と白板昆布を乗せた押しずしのバッテラ。大阪府域の郷土料理として有名です
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大正
大正から昭和初期にかけて、旧堺エリアだけで昆布加工業が140~150軒もあり、昆布加工業のピークを迎えました。
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昭和中期
終戦後、戦災や徴税、後継者不足等の影響により堺の昆布加工業者は20軒、職人も20~30人にまで減少してしまいました。
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昭和後期
機械化の波も取り入れ、機械製のとろろ、おぼろ昆布や菓子昆布、佃煮昆布などの分野も手掛け、堺の昆布産業は継続・活性化しました。
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平成〜現在
酢につけて柔らかくなった昆布を職人が手作業で薄く削り取るように作るおぼろ昆布や、その削りだした後に残る薄い芯の部分を使うバッテラ昆布など、職人の技と昆布を削る「アキタ」と呼ばれる堺製の刃物で作られる昆布製品。職人の高齢化などの課題を持ちつつも、関西の味を支え続けています。
職人の手によって、薄く削られるとろろ昆布やおぼろ昆布。和食の原点でもある昆布加工は、現在も脈々と受け継がれています
:撮影協力/(株)郷田商店
やきもの(窯業)
堺の丘陵部(きゅうりょうぶ)は粘土が多く、それを使った
さまざまなやきものが生産されてきました。
地産地消の枠を超え、
全国へ流通したものも多く作られた
堺のやきものの歴史をたどってみましょう。
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古墳時代
陶器のルーツとされる須恵器(すえき)の技術が日本に伝わったのは古墳時代(5世紀頃)。その技術とは、窯(かま)で焼くことが最大の特徴で、1000度を超える高温で焼かれました。『日本書紀』に書かれた古い地名「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」が現在の泉北エリア及びその周辺にあたるとされており、丘陵部では多くの須恵器の窯がみつかっています。古来堺(現在の市域をいう。以下同)の地で須恵器が盛んに生産されていたことを物語っています。
仁徳天皇陵古墳:写真提供/堺市
5世紀ごろの須恵器:写真提供/堺市博物館
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平安時代
須恵器生産に必要な薪の不足などにより、約500年に及ぶ須恵器生産が下火になりました。
器表に燻しをかけた瓦器(がき)が11世紀に登場し、堺では14世紀まで生産されました。種類は碗と皿が多かったようです。
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室町時代
明徳3年(1392)の年号を記す河南町弘川寺の鬼瓦には「いつミのくにふかいのきやう三郎さく也」と記されていて、堺周辺で生産されていたことがうかがえます。
甕(かめ)、釜、すり鉢としての土器は、15世紀には瓦質土器が、16世紀以降は土師質土器が全盛となり、中区八田荘あたりで盛んに生産されたようです。
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安土桃山~江戸時代
堺区西湊町付近で16世紀には生産されていた「焼塩壺(やきしおつぼ)」は、17世紀に全盛となりました。全国的に流通したようで、各地で生産された多くの類似品が出回ったとされます。
塩焼壺:写真提供/堺市博物館
17世紀以降、城、寺社のほか町家に瓦葺(かわらぶき)が普及するようになり、瓦の生産量が増加しました。堺瓦は江戸城、大阪城、萩城、和歌山城などでも用いられました。
堺瓦刻印
:写真提供/堺市博物館
さらに、17世紀から生産されていたと云われる「湊焼」は19世紀に全盛をむかえ、茶陶(ちゃとう)を多く生産しました。
中区八田荘あたりでは、ほうらく、壺、甕(かめ)が18世紀までは生産されていました。
18世紀初頭には、すり鉢(堺擂鉢(さかいすりばち))が生産されるようになり、一見備前焼(びぜんやき)と思われるような高品質な品は全国を席巻したようです。18世紀が全盛で、19世紀まで生産が続きました。
湊焼茶碗:写真提供/堺市博物館
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明治~大正
瓦やすり鉢の生産技術を生かし、明治に入り近代土木建築用材としてのレンガ生産にいち早く取り組んだ堺では、多くのレンガ会社が操業しました。
しかし、関東大震災を境に、建築物がレンガからコンクリートに替わり、レンガ工場は減少していきました。
堺緞通・敷物
「敷物王国」とも称される堺の
敷物産業ですが、その直接的なルーツは、
江戸後期の糸物商が手掛けた
緞通(だんつう)にあります。
一時期は一大輸出産業でもあった、
堺緞通・織物の歴史をたどります。
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室町時代(1336年~)
応仁・文明の乱(1467~1477年)
応仁の乱で、京都が戦場になり都市機能を失いました。また、それまで遣明船(けんみんせん)の発着港であった兵庫津が西軍に占領されたため、堺津(さかいつ)が遣明船の発着港となり、国際貿易の起点になったのです。その後、南蛮貿易(なんばんぼうえき)により、様々な商品が取引され各種産業が堺を中心に発展してゆくことになります。
京都・西陣の織物師が、応仁の乱による混乱から逃れて堺にやってきました。同時に貿易によって生糸を入手しやすくなり、堺での織物産業が隆盛に向かったと伝えられています。
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江戸時代(1603年~)
戦国期の混乱が収まるにつれ、戦乱を避けて京都から堺に移り住んでいた織物師が帰京し、堺の絹織物は衰退に向かいます。
一方で、堺周辺で木綿の栽培が盛んになると木綿加工品の製造が行われ、堺はその集積地として栄えていきました。
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真田紐を製造・販売していた糸物商の糸屋(藤本)庄左衛門(いとやしょうざえもん)が佐賀藩の鍋島緞通(なべしまだんつう)と中国製の敷物を手本に、堺緞通を製造し、販売を始めました。
真田紐(井上修一氏蔵):写真提供/堺市博物館
江戸時代の堺緞通(木綿製松代藩真田家旧蔵)
:写真提供/堺市博物館
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明治前期
明治初期には、糸屋庄左衛門の孫の藤本荘太郎(ふじもとそうたろう)が緞通の製法を改良。明治10年(1877)、東京で開かれた「第一回内国勧業博覧会」に出品したことが、「堺緞通」が世に知られるきっかけとなりました。
『南海鉄道案内』(上巻):写真提供/堺市立中央図書館
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明治中~後期
明治中期には、製造者が急増しアメリカやフランスへの輸出が盛んになりました。しかしながら、高関税や粗悪品の流通もあって明治後期には緞通業者が激減してしまいました。
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大正
大正から昭和の初めにかけ全国に洋館が建築されると、羊毛製の堺緞通の需要が増加しました。
大正の堺緞通(羊毛製 旧阪谷邸食堂用)
:写真提供/渋沢史料館
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昭和初期
昭和11年(1936)に完成した国会議事堂にも堺緞通が納められました。
「議事堂御便殿前敷物」完成記念古写真
:写真提供/堺市博物館
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昭和中期
昭和30年ごろには、堺緞通の生産は下火となり、ハンドタフト(フックドラグ)やチューブマットの輸出が盛んに行われました。やがて、ウィルトンカーペットやタフテッドカーペットの製造が主力となり、高度成長期とも重なって堺は「敷物王国」と呼ばれるほどに成長しました。
輸出用敷物カタログ:写真提供/堺市博物館
国会議事堂の赤絨毯(参議院第一議員階段)
:写真提供/参議院
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平成~現在
敷物全般については、新素材の開発やコンピュータ化など製造技術の進歩に伴い、様々なニーズに対応する製品が作られています。機械化により堺緞通の手作業で作られる技術が失われかけましたが、「堺式手織緞通技術保存会」により、現在も技術の伝承が行われています。
和晒・注染
安土桃山の時代から始まった木綿の栽培を発端に、そこからできた綿布を手間ひまかけて
不純物を取り除く「和晒(わざらし)」は、堺の地の利を生かして発展してきました。
そこに「注染(ちゅうせん)」という技術と出会い、一つの伝統産業が生まれ育ってきたのです。
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古墳時代(3世紀~)
麻や藤蔓(ふじづる)、楮(こうぞ)などを「晒(さら)し」てから糸を作り、機織りして衣類を作っていました。
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奈良・平安時代(710年~)
現在でいうところの手拭いを表す「たなぐい」、同じくゆかたを表す「湯帷子(ゆかたびら)」という言葉が登場しました。「たなぐい」は神社・仏閣などの神聖な行事で使われる神器を拭いて清めるために、「ゆかたびら」は高貴な僧や貴族が体を清めるために「蒸し風呂」に入るときに身に付けたものと考えられています。
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安土桃山時代(1573年~)
豊臣秀吉の時代、文禄~慶長時代(1590年代)に、三河の国、河内の国、和泉の国、摂津(現兵庫県を含む)で本格的な木綿(もめん)の栽培がはじまりました。
綿花の栽培は、日本の衣料に大きな変化をもたらしました
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江戸時代(1603年~)
江戸時代初期には堺は全国有数の木綿および和晒の生産地になりました。踞尾(つくお。現在の津久野町)では寛永3年(1626)に田を木綿作りに切り替えていたとの記録や、元禄7年(1694)大鳥村の田畑の50%が木綿畑であった、との記録が残っています。
元禄7年大鳥郡の作付け(堺市史)
:資料提供/協同組合オリセン
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江戸時代中期には現在でいう観光案内書である「和泉名所図会」に石津さらしが紹介されています。石津川流域は海からなだらかな丘陵地になっていること、肥料である干鰯(ほしか)が容易に入手できたこと、熊野街道を通じて大坂、京、北陸路に流通が発達していたことから堺の石津さらしは広まりました。これにつれて堺は全国有数の木綿商いの中心地になっていきました。
このような時代背景から、幕末には日本で初めての綿糸工場が薩摩藩により設立・操業されました。
石津さらし(和泉名所図会):資料提供/協同組合オリセン
近年の石津川のようす
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明治前期
明治時代初期、和晒はまだ従来の製法であったため、大釜や石臼に一度に入る50反程度が製造単位で、およそひと月かけて仕上げられました。明治中期になると晒粉が普及し、釜のサイズも200反と大型化、製造期間も1週間に短縮されるようになりました。地域としては毛穴地区の生産量が大きく上がったのもこのころとされています。
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明治中期
明治20年ごろ、大阪市内の紺屋でおしゃれなデザインの模様手拭を量産化する「注ぎこみ染め」が開発されました。現在でいう注染です。注染は当初手拭の量産を目的としていましたが、明治中期にゆかたの染色に応用されて注染ゆかたへの評価がたかまり、明治末期~大正初期にかけて大阪の注染工場数は飛躍的に増えました。
明治の時代に誕生した技が今も受け継がれています
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大正
注染ゆかたは全国的に評判を取り、注染の染色法は東京を始め全国に広まりました。大阪の注染職人は、各地で講師を務めたり、場合によっては引き抜かれたりしたそうです。
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昭和初期
戦災のため大阪市内は焼け野原となってしまいました。市内の注染工場の一部は、原材料である和晒と水(川)をもとめて、堺市内に工場を新設しました。これにより、堺市の毛穴・津久野地域は、和晒の製造から染色、整理(製品への仕上げ)まで、地域内で手拭い、ゆかた、寝間着などの製造を一貫して行える全国でも稀な地域となり、和晒、注染ともにそのシェアは日本一になっています。
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現在
柔らかな和ざらしの風合いを生かした商品や、注染の技法を生かした手ぬぐいやゆかただけではなく、マスクやエコバックなど、伝統を生かしつつ現在のニーズに応じた製品が作りだされています。また、これらの伝統を繋げようと、事業者のなかには注染や絞り染め体験などを提供する工房も生まれています。
伝統に裏打ちされた風合いと華やかな色彩の浴衣
:写真提供/協同組合オリセン
線香
海外の貿易により、当時珍しかった薬種や
香木がもたらされた堺では、
香りの文化が息づきました。
その歴史を辿ってみましょう。
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室町時代(1336年~)
応仁・文明の乱(1467~1477年)
応仁の乱で、京都が戦場になり都市機能を失いました。また、それまで遣明船(けんみんせん)の発着港であった兵庫津が西軍に占領されたため、堺津(さかいつ)が遣明船の発着港となり、国際貿易の起点になったのです。その後、南蛮貿易(なんばんぼうえき)により、様々な商品が取引され各種産業が堺を中心に発展してゆくことになります。
そこに含まれていた薬種や香木などを利用して堺で線香の製造がはじまりました。線香は、椨(ふ)の木の皮を乾燥させて粉にしたものをベースにして、主にアジア方面に自生する伽羅(きゃら)や白檀(びゃくだん)などの香木やそのほかの香料を調合して独特の香りを作り出します。
線香の元となる、香木。当時は非常に貴重なものでした
:撮影協力/(株)奥野晴明堂
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江戸時代(1603年~)
江戸時代には、庶民の間にも仏教が浸透し、線香の需要が高まりました。香を扱う薬種問屋だけに許された「沈香屋」と称する線香を製造販売する店もあり、堺の線香が隆盛を誇っていたようです。寛永年間(1624~1644)には、線香・薫物の組合組織があったという記録も残っています。
代々受け継がれたという調合表。現在はほぼ使用されていないという
:撮影協力/(株)奥野晴明堂
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明治前期
仏壇の普及や流通の発達により、堺産の線香が全国へと出荷されるようになり、産業としても隆盛を誇っていました。
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昭和初期
昭和初期まで堺は線香のシェア全国トップを占めていましたが、不幸にも第2次世界大戦の空襲の中心地に線香製造の会社が集中していたため、産業全体が大打撃を受けてしまいました。
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平成~現在
戦後、線香の製造シェアは下がってしまいましたが、歴史に裏打ちされた香りの調合技術を生かした高品質な製品を製造し、国内外で愛され続けています。また、リラックスやリフレッシュを目的として、暮らしの中の香りを取り入れる観点から、新たな商品も生まれており、海外からの需要(じゅよう)も高まっています。
現代において線香は、暮らしを香りで豊かにしています
:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
今も伝統的な技法で作られる線香
:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
酒
実は堺は江戸時代から昭和初期まで
酒造りが盛んで、
明治期には堺では
トップクラスの産業でした。
その栄枯盛衰の歴史をたどってみましょう。
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室町時代(1336年~)
応仁・文明の乱(1467~1477年)
応仁の乱で、京都が戦場になり都市機能を失いました。また、それまで遣明船(けんみんせん)の発着港であった兵庫津が西軍に占領されたため、堺津(さかいつ)が遣明船の発着港となり、国際貿易の起点になったのです。その後、南蛮貿易(なんばんぼうえき)により、様々な商品が取引され各種産業が堺を中心に発展してゆくことになります。
この影響で、京都で隆盛を誇っていた酒造りも大きな打撃を受けることになります。乱を避けて堺へ移った酒造技術者もいたことから、堺の酒造りが盛んになりました。
また、このころに、大容量の木樽が開発され、大量運搬が可能になって酒造が大いに発展しました。堺で作られた「堺樽」が評判を得て、以降堺の酒造は江戸時代まで続くことになります。
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江戸時代(1603年~)
江戸時代には、堺は伊丹、池田、西宮などに並び、酒造業が隆盛を誇ります。元禄8年(1695)に酒屋109家、酒造高6430石程との記録も残っています。
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明治
明治時代には、堺の主要製造業の出荷額において、清酒はトップの額を誇るほどの主要産業に成長していました。
明治12年(1879)には、鳥井駒吉(とりいこまきち)が堺酒造組合を設立、同20年には大阪麦酒会社(のちのアサヒビール)を起業しました。翌21年にはスペイン・バルセロナ万博に壜詰酒(びんづめしゅ)を出品するなどの功績も残っています。
米谷甚三郎が販売した「八千世」の引札 年不詳、明治時代か
:写真提供/堺市博物館
鳥井合名会社が世に出した
初めての壜詰酒「春駒」
:写真提供/堺市博物館
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昭和初期
良質な水の不足、堺の市街地化における土地確保の難しさなどから、堺の醸造家の多くは灘に進出することになってしまい、堺の酒造業は衰退の道をたどります。
戦前までは堺で醸造されていた清酒、金露・都菊・菊泉の名が記された看板。戦後は灘に移転した。 年不詳
:写真提供/堺市博物館
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昭和後期
昭和47年(1972)、遂に堺の酒蔵が姿を消してしまいました。
ただ、酒造道具は引き続き生産され、2000年代初めには、日本で唯一となった醸造用の大桶を作る技術を持つ会社が2020年ごろまで製造を続けていました。
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現在
平成26年(2014)、明治期に堺を支えた酒造業の復活を目指して立ち上げられた「利休蔵」が清酒製造を開始し、翌年、40年以上の空白期間を経て、堺生まれの清酒「千利休」が誕生しました。
千利休の名を冠した堺
生まれの日本酒
:写真提供/利休蔵
茶の湯文化
中国から来たお茶は、鎌倉時代には薬として、その後は武家の社交の道具として茶の湯という文化と
なっていきました。その過程で堺にゆかりの人々が重要な役割を果たしていきます。
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奈良・平安時代(710年~)
平安時代、遣唐使として中国に渡った最澄や空海が茶を持ち帰り、比叡山に植えたのが始まりと伝わっています。
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鎌倉時代(1185年~)
禅僧の栄西が茶をさらに広めて武家社会に浸透し、その後嗜好品として普及していきました。
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室町時代(1336年~)
皮革商を営む豪商であった武野紹鷗(たけのじょうおう)が堺で茶の湯を広めました。堺の侘茶(わびちゃ)の開祖ともいうべき人物で、千利休などの門人を育てました。
武野紹鴎像
:写真提供/堺市博物館
大永2年(1522)、堺で倉庫業などを営む商家に、千利休が生まれました。武野紹鷗に師事し、その後、織田信長、豊臣秀吉の茶頭として仕え、侘茶のスタイルを大成させました。
千利休:写真提供/堺市博物館
弘治3年(1557)、南宋庵をもとにして南宗寺が創建。南宋庵・南宗寺には武野紹鴎や千利休が参禅し、禅の精神を学んだと伝わっています。
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安土桃山時代(1573年~)
天正19年(1591)、千利休、切腹(享年70)。豊臣秀吉に命じられたとされていますが、その理由については諸説あり、真相は謎に包まれています。
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明治前期
明治維新で職を失った士族のため、駿府の地でお茶づくりが始まりました。その時にお茶栽培の指南役として、堺のお茶商人に白羽の矢が刺さったという説もあるほど、この時代の堺はお茶の集散地として栄えていました。
嘉永3年(1850)創業のつぼ市製茶本舗に代々伝わる碾(うす)。明暦元年(1655)の銘が刻まれています
:撮影協力/(株)つぼ市製茶本舗
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明治中~後期
緑茶は輸出産業として隆盛し、堺の環濠(かんごう)内に200件ものお茶を扱う店があったといいます。その後、静岡県の清水港が明治32年(1899)に開港、海外への輸出の中心地が静岡へと移ってしまい、堺のお茶問屋は減少してしまいました。
明治16年出版(1883)の「住吉堺名所並ニ豪商案内記」に記された堺のお茶問屋の様子
:写真提供/国立国会図書館デジタルコレクション
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現在
武野紹鷗や千利休が開花させた茶の湯文化と、南蛮貿易等により輸入された砂糖や香料などの原材料とが出会い、堺では古くから和菓子が作られてきました。現在でも、その系譜を伝える茶室や日本茶専門店などが点在しています。
南宗寺で行われる茶会の様子
:写真提供/(公社)堺観光コンベンション協会
嘉永3年(1850)創業のつぼ市製茶本舗が営む日本茶専門の茶寮:撮影協力/(株)つぼ市製茶本舗
鯉のぼり
江戸末期から明治初頭にかけて、
堺に伝統的な鯉のぼりの技術が誕生しました。
現在にも受け継がれる鯉のぼり作りの歴史を辿ってみましょう。
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明治前期
明治初期、玩具問屋「高儀(たかぎ)」初代高田義三郎(たかだぎさぶろう)が、和凧(かつまだこ)の職人に和紙の鯉のぼりを作らせたのが、堺の鯉のぼりの始まりです。
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明治中~後期
英国から幅広い綿布を輸入し、晒の技術なども取り入れて綿布の鯉のぼり制作を開始。和紙に比べると耐久性が格段に向上しました。また、明治後期には、真鯉の背に金太郎がまたがっているというお馴染みの図柄が考案され、人気が広がりました。
現在にも伝わる伝統的な図案は、この時代に堺で生まれました
:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
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昭和初期
昭和初期ごろまで、関西一円に加え、ハワイにも輸出するなど、隆盛を誇るようになりました。
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昭和中期
ナイロン製スクリーン印刷の安価な鯉のぼりが流通し、堺の手描き鯉のぼりは激減しました。
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昭和後期
昭和61年、大阪府で唯一手描きの伝統を受け継ぐ「高儀の鯉幟」は、「堺五月鯉幟」として、大阪府知事指定伝統工芸品の指定を受けました。
大胆な構図と鮮やかな色彩は、手描きならではの美しさを誇っています:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
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現在
現在、全国でも4~5軒しか現存しないといわれる手描き鯉のぼりの技術を「高儀」6代目の高田武史さんが継承しています。
例年5月を迎えるころには、子どもたちの成長を祈る鯉のぼりが堺の空を泳ぎます:写真提供/(公財)堺市産業振興センター
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